ADO15プロジェクト
1957年3月、イシゴニスは小型車の開発を命じられます。
プロジェクト名はADO15。
「ADO」とは”Austin Drawing Office”の略で、「オースチン社の設計部門」の15番目のプロジェクトくらいの意味合いです。
彼の開発チームは僅か4ヵ月間で木製のモック・アップ、そして、主要な部品の設計を完成させました。
さらには同じ年の10月までに、2台のプロトタイプ「Orange Box」を完成させていました。
この「Orange Box」の基になったのが、これらのスケッチです。いかに彼が明確にミニについてのコンセプトを持っていたかがわかるでしょう。とは言え、実用面や安全面についてなど―例えば、ガソリンタンクの位置など―は改善の余地がありましたが。
開発開始から1年と4ヵ月後の1958年7月、この「Orange Box」へのレナード・ロード会長による試乗が行われました。
その結果、彼は12ヵ月以内の生産開始という目標を打ち出します。
ところが、この時点では未だ検討すべき余地が多く残されていました。
例えば、パワーを落としたエンジンの開発が必要でした。
その時点では未だ、エンジンは既存のエンジンであるA-seriesの中から948ccのものを仮に載せていたに過ぎなかったのです。
また、この「Orange Box」と最終的に製造販売が開始されたMINIとは、やはり趣が違います。
恐らくはフロント・グリルのせいでしょう。もし、「Orange Box」のままでMINIが量産されていたとしたら、果たしてここまでのロング・セラーになったかどうか。
徹底したミニマリストと化したアレックス イシゴニスは、フロント・グリルですら最小限にしようとしたのです。
なお、結局のところ、最終的にはモーリスのバッジをつけた車のグリルが最終的な妥協案だったようです。とは言え、ミニの商用車(ミニバンやミニピックアップなど)では、このようなシンプルなグリルが残っていますが。
このレナード・ロード会長の期待に応えるべく、イシゴニス達は1959年までに開発を完了します。そして、レナード・ロード会長も彼らを信じ大英断を下しました。ミニの生産開始です。
何故これが大英断と言えるのか。
それは、開発期間は僅か2年余り。にもかかわらず、エンジンは前例のない横向き。そのためにステアリングとトランスミッション・ギアの開発は一から始められなければならず、ギア・ボックスはエンジンの真下に据付けられ、しかもオイル・ポンプはエンジンと共用、ドライ・ラバー・コーン・サスペンションは大量生産車での実績がなく、ホイール・サイズも時速100km以上の速度での走行を想定した車としては極めて小さい10インチ。
「初めて」が満載の自動車の大量生産など、並みの経営者ならばとてもすぐにはOKは出せないでしょう。
しかし、技術者達の努力と経営者の大英断はミニという一時代を築いた車を世に送り出すことになりました。
1957年3月、イシゴニスは小型車の開発を命じられます。
プロジェクト名はADO15。
「ADO」とは”Austin Drawing Office”の略で、「オースチン社の設計部門」の15番目のプロジェクトくらいの意味合いです。
彼の開発チームは僅か4ヵ月間で木製のモック・アップ、そして、主要な部品の設計を完成させました。
さらには同じ年の10月までに、2台のプロトタイプ「Orange Box」を完成させていました。
この「Orange Box」の基になったのが、これらのスケッチです。
いかに彼が明確にミニについてのコンセプトを持っていたかがわかるでしょう。
とは言え、実用面や安全面についてなど―例えば、ガソリンタンクの位置など―は改善の余地がありましたが。
開発開始から1年と4ヵ月後の1958年7月、この「Orange Box」へのレナード・ロード会長による試乗が行われました。
その結果、彼は12ヵ月以内の生産開始という目標を打ち出します。
ところが、この時点では未だ検討すべき余地が多く残されていました。
例えば、パワーを落としたエンジンの開発が必要でした。
その時点では未だ、エンジンは既存のエンジンであるA-seriesの中から948ccのものを仮に載せていたに過ぎなかったのです。
また、この「Orange Box」と最終的に製造販売が開始されたMINIとは、やはり趣が違います。
恐らくはフロント・グリルのせいでしょう。もし、「Orange Box」のままでMINIが量産されていたとしたら、果たしてここまでのロング・セラーになったかどうか。
徹底したミニマリストと化したアレックス イシゴニスは、フロント・グリルですら最小限にしようとしたのです。
なお、結局のところ、最終的にはモーリスのバッジをつけた車のグリルが最終的な妥協案だったようです。とは言え、ミニの商用車(ミニバンやミニピックアップなど)では、このようなシンプルなグリルが残っていますが。
このレナード・ロード会長の期待に応えるべく、イシゴニス達は1959年までに開発を完了します。
そして、レナード・ロード会長も彼らを信じ大英断を下しました。ミニの生産開始です。
何故これが大英断と言えるのか。
それは、開発期間は僅か2年余り。にもかかわらず、エンジンは前例のない横向き。そのためにステアリングとトランスミッション・ギアの開発は一から始められなければならず、ギア・ボックスはエンジンの真下に据付けられ、しかもオイル・ポンプはエンジンと共用、ドライ・ラバー・コーン・サスペンションは大量生産車での実績がなく、ホイール・サイズも時速100km以上の速度での走行を想定した車としては極めて小さい10インチ。
「初めて」が満載の自動車の大量生産など、並みの経営者ならばとてもすぐにはOKは出せないでしょう。
しかし、技術者達の努力と経営者の大英断はミニという一時代を築いた車を世に送り出すことになりました。