21.Cooper Car Co 84


Cooper Car Co 84

マーズスピード ストーリー
 Cooper Car Co 84

今回は マーズスピードUKを設立する発端となったCooper Car Co 84 Ltdという会社について紹介したいと思います。

マーズスピード ストーリー その7・Cooper Car CO 84

マーズスピード ストーリー その7・Cooper Car CO 84

今回は マーズスピードUKを設立する発端となったCooper Car Co 84 Ltdという会社について紹介したいと思う。この会社とは 英国南部のRomseyという土地でニック・ブロトス氏が率いる会社で クーパー・フォーミュラ・Rやクーパー・ミリアという車を世に送り出した会社である。この会社について詳しいことを説明する前に ミニ・クーパー・レジスターという英国のミニのクラブの発行する雑誌で20036月に発行されたものの中でロバート・ヤングという人物が書いた物を見つけたのだが(ミニ・クーパー・レジスター・ジャパンのウェブサイト上) とても興味深い物だったので紹介したいと思う。次回の記事でまた詳しいことは書くつもりだが このロバート・ヤング氏が疑問にしていることは 私どもが関わっていたことなので熟知しているのである。

 

2003.06 MCRJニュースレターより(ロバート・ヤング著)

クレイグ・ウォッシュにとっては、ひとつの広告が彼の目を引いた。彼はこの小冊子を親切にも私に提供してくれた人物であり、その広告とはポール・ハックスフォード社のものであった。ハンプシャー州フェアハムを本拠とする同社は、 復刻版ミニ・クーパーの製作を行う会社であった。忘れるわけがないが、1989年時点ではローバー・クーパーはまだ登場しておらず、当時、クーパーモデルを入手するには、18年以上も昔のミニ・クーパーに戻ることを除外すれば、スタンダードのローバー・ミニをモディファイするしか方法がなかった。
ちょうどその頃、ジョン・クーパーもウェスト・サセックス州フェリングを本拠として、同じようなことをやろうとしていた。ハックスフォードはまた、英国におけるクーパー・カー・カンパニーの総代理店でもあった。私の記憶に間違いなければ、これはジョン・クーパーがクーパー・カー・カンパニーの商標①を買い戻す前のことだったように思う。ハックスフォード社は大変珍しい「ローズ・ペタル」ホイール(CRホイールのこと)を製造しており、このホイールは実際に彼らが製作するミニ・クーパーに装着された。
クーパー・カー・カンパニー社は事実上4年間に渡って、ハンドメイドによってミニ・クーパーを製作してきており、その大部分は日本マーケット向けに計画されたものであった。
ハックスフォード社の指名によって、ミニ・クーパーは再び英国マーケットでも販売されるようになった。

同社についての記憶があいまいで、このクルマがどういうふうにして製作されたかは覚えていない。すでにオーナーの存在する現車をベースに作り上げたか、あるいはすでにハックスフォードでコンバート済みの新車を購入することが出来たのだろうと私は確信している。言うまでもなく、ハックスフォード・クーパーの性能自体についても定かではない。どなたか、この珍しいクルマのことが書かれた資料をお持ちではないだろうか?実際、ハックスフォード・クーパーを所有しているMCR会員はいるのだろうか?もしおられたなら、是非お知らせ願いたい。そしてポール・ハックスフォード社には実際に何が起きたのだろうか?私の考えでは、一度クーパーの商標がフェリングに戻った後は、むしろ両社の売上が減少したはずだ。
一方フェリングに話を戻すと、ジョン・クーパーもまた、独自にミニ・クーパーを製作していた。彼のはスタンダードの「ミニ・レーシング」をベースに作られていた。これはローバーの手により、ブリティッシュ・レーシンググリーンのボディと白屋根に塗装され、1960年代のレーサー風に上手くまとめ上げられていた。このコンバージョンの価格は1275ポンド(エンジン排気量と偶然の一致)であった。シリンダーヘッドはポート研磨され、大径バルブと強化スプリングで高圧縮比(9.75:1)を得て、1 1/2サイズのSUツインキャブがボルトオンされていた。また、クロームメッキが施されたMGメトロタイプのロッカーカバーと、ツインボックス型のエグゾースト・システムも用意された。彼らの主張するエンジン出力は、オリジナルの48馬力から64馬力に引き上げられた。これにより、060マイル加速は13.5秒となった。当時のクーパーSの出力と性能には及ばないが、悪くはない数字だ。
カムシャフトに関しては言及されていないが、これはスタンダードのままであったと思われ、コンバージョンの成果は主にトップエンド領域のみであった。

ジョン・クーパーへのインタビューの中で注目すべき面白いものがある。それは彼が本物のクーパー(彼がそう言ったのであり、私ではない)のオーナーは、新バージョンのミニ・クーパーには冷ややかなように感じる、と述べたことである。彼はまた新ミニ・クーパーを製作するに要する費用が、改造仕事で相当掛かってしまうと感じていた。私が思うにジョンは、ローバーとのミニ・クーパー復刻計画を遂行するなかで、コスト面で苦悩していたに違いない。話が脱線してしまった

オリジナル・ミニ・クーパーとクーパーSの製造期間が1961年から1971年の10年足らず、ということを考えると実に奇妙だ。それから19年ほど経過してから、いくつかの不思議な理由②によってローバー・クーパーが誕生し、またその製造期間が10年。いったい他にどんなクルマが、こんなに長い時間の経過の後に再生産され、しかもそのオリジナルと同じだけの期間作り続けられたというのだろう?ハックスフォード社とニック・ヴロトス
Huxford & Nick Vrotsos
以下は、先月号に書いたポール・ハックスフォードの続き。何人かのMCR会員とのコンタクトによって、「ミニ・クーパー」名でハックスフォードが販売した、この車両に対する私の記憶がよみがえり、感謝に堪えない。
ハックスフォード社やニック・ヴロトス氏関連のイベント史の詳細を教えてくれたマーク・アプセイ(この車両のオーナーの1人)には多大な御礼を申し上げる。ステファン・スミス、トニー・ソルター、バーバラ・アレキサンダー各氏からもいくつかの情報を頂戴し、ケルビン・スパローホークには、ハックスフォード社自身が制作したオリジナルの販促用小冊子を送っていただいた。最後にフィル・トムソンは、1989年(頃)のビューリーにおけるこの車両の数枚の写真と、実売用のパーツカタログのコピーを送ってくれた。

私は「ハックスフォード物語」は1984年、ニック・ヴロトスが「クーパー・カー・カンパニー1984」名を登記した時に始まったのだと思う。ニックは鋳物工場と金型製作を本業としていて、このことが他ならぬ、ワークス・クーパーがそのレーシング・ミニに装着していた、あの愛すべき「ローズ・ペタル」ホイールの復刻版の製作に走らせたのである。彼はサルーンカー・レースにジャガーで参戦する「ボルツ・レーシング」(Vortz Racing)を運営していて、同時にミニ・クーパーの復刻版製作計画にも余念がなかった。その計画が完成したのは1988年のことで、スタンダードのオースチン・ローバー・ミニ・シティを購入し、それをクーパー仕様にコンバートする作業が開始された。この作業はニック自身と、彼のロムゼイ工場のメンバーで作ったチームで行なわれた。
その頃、当該車両をクーパーとして登記することをDVLA(登記所?)に認可された。これには条件があって、それは当該車両が「クーパー・カー・カンパニー」によって80%が内製されていることを証明すること、というものであった。彼はこれは可能だと思ったようだ。ニックが作る「新型」クーパーの内製品には、新デザインのツートンカラーのインテリア・トリムや、リヤの灯火用鋳造品、レンズ、フロントグリル完成品一式、素晴らしい4ポッドのキャリパー、そして例のローズ・ペタル・ホイールが含まれていた。これらは全てロムゼイにて、ニック自身によって製作された。
ニックは2種類の車両を製作した。ひとつは998㏄エンジンを搭載したもので「クーパー・ミレア=Cooper Miglia」と呼ばれ、もう1台の方は1293cc版で「フォーミュラR」と呼ばれた。
ミレアが先に路上に登場し、一般の自動車雑誌によってロードテストが実施された。ゴルフGTIやプジョー205GTIなどの当時のホットハッチと比較すると上下のピッチングが過大ではあったものの、高い評価を得ることが出来た。引き続いて、ウィンチェスターを拠点とする地元のオースチン・ローバーの各ディーラー③や、フェアハムではポール・ハックスフォード・カー(株)で販売が開始された。このクルマは日本ではよく売れたが、英国の消費者には、ミレアの場合で10,000ポンド、フォーミュラRだと16,000ポンドという正札、特にスタンダードのメイフェアが当時、たったの2,500ポンドで買えたことを考慮すると、うんざりするような価格であった。

問題は1989年後半に持ち上がった。シルバーストンで行なわれたミニ30周年イベント出展のため、クーパー・カー・カンパニー1984を展示しているところをジョン・クーパーが通りがかり、それを見た記者が、彼と「彼のクルマ」の写真を撮らせてくれと依頼。ジョンがこのクルマと自分とは何の関わりもないと指摘したときに、恐らくトラブルの芽が生まれた。その後、オースチン・ローバー社が法的手段に出ることを決定した。これは恐らく、彼らが計画中であった「ローバー・クーパー発売計画」を保護するためであった。この法的手段とは、当該車両の製造を中止させることと、クーパーの名前に関しての論争をすることであったはずだ。結果的にはニックは製造を中止し、オースチン・ローバー社の力を示す必要はなくなった。
この極めて創造的なベンチャービジネスの頓挫は、誠に残念なことであった。というのはこの車両が単なる「バッジエンジニアリング」つまり見かけだけでなく、機構的、メカ的な技術を伴ったものであり、それはこれまでにリリースされたローバー・クーパー各車よりも、オリジナルのクーパー、クーパーSに近いものであったに違いない。
ポール・ハックスフォード社は現在もなお同じ場所において、シュコダ車の代理店を営んでいる。
マーク・アプゼイのは、ハックスフォード社が末期に販売した車両の1台で、レジストレーションナンバーはG101 VPOである。マークはこの車両を「e-bayオークション」で購入し、現在この車両に関するクラブからの情報集めに躍起になっている。私も何か興味深いものがあれば提供を惜しまないつもりである。

多大な労力が灰燼に帰した極めて興味深い物語であり、この問題が生じたことの倫理や道徳的な見方は別にして、ニックが素晴らしい製品を創り上げたということに関しては、全く疑いをはさむ余地はない。彼が行なった事に対する法律面での羞恥は、彼の技術力とは何の関係もないのである。

これ以下は マーズスピードで知る情報です

 クーパー・カー・カンパニーの商標
ジョン クーパー氏は1971年のMK3生産以降 クーパーという商標を 当時のBMWの英国総代理店であったTKNという会社に売却してしまっていたので TKNという会社以外はクーパーという名前を使うことができないのであった
いくつかの不思議な理由②
誰かが他の名前を用いた会社や商品を作っても もし
1年間以上 誰もそのことに気が付かず 指摘されなければ その権利はその誰かのものになるという英国の法律であるらしい。それを利用してヴロトス氏はクーパーの商標権を取ったらしい。また 正式のクーパーの商標権を持つBMW社の関連会社は BMW社がローバー社に商標権を貸したのではないかと思う。(あくまで個人的な意見として)と言うのも水面下でBMW社のローバー社買収話が持ち上がっていたから
ウィンチェスターを拠点とする地元のオースチン・ローバーの各ディーラー③ 
これは マーズスピードUKのことです。勿論,その当時はそのような法律があるとは知らず Cooper Car Co,84の製造するクーパーは正式に認可されたものと信じていたのです(一応、正式は正式でしたが)